なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。 おのおのに、その道にしたがい、 その行いの実によって報いをするためである」。
そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。
子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。
主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。
見よ、わたしはあなたに答える、 あなたはこの事において正しくない。 神は人よりも大いなる者だ。
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
あなたはわれらの不義をみ前におき、 われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。
たしかに、こういう人たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである。
わたしは堅くわが義を保って捨てない。 わたしは今まで一日も心に責められた事がない。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、
これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。
愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。